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黒澤明 「赤ひげ」 [映画]

          
    赤 ひ げ (1965)

  

黒澤明が君に贈る “苦悩と救済の物語

激痛に堪えながら無言のまま逝った老人と その娘の悲話、
自死した恋女房の想い出を胸に無欲に生きた
職人の最期、
富裕層のぜいたく病、無策に等しい幕府の貧民対策と公費
削減、岡場所で執拗に売春を強要される孤児少女の救出劇、
粥を盗んで飢えをしのぐ幼児とその一家の心中事件…ひとり
の青年医師を通して明らかにされる封建社会の矛盾と悲惨、
そして
壮絶な人間ドラマの数々。
青年が養生所で目(ま)のあたりにした生老病死の実相は、
市井の人々が身をもって伝えた 厳しい人生の真実だった。


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し か し !!

この映画が 単なる悲惨の羅列=救いのない暗い話
終わっていたとしたら、多くの人に、これほど長きに渡って
支持され 語り継がれるはずもない。
絡(から)まった糸のような 苦悩と絶望の二重らせん
黒澤が いかなる方法で脱していったのか、 そしてどんな
アプローチで 希望と救済のラストシーン に昇華させて
いったのか、ぜひ その眼で確かめて頂きたい。




赤ひげ→保本→おとよ→長次と伝播していく “愛の物語”は
水が低きに流れるように極めて自然に展開していく。
決して人間感情の摂理を外すことなく 論理的に練り上げられた
“悲しくも美しい人間愛の物語”。



しかし、あるはずのないユートピア(理想郷)の物語を観る者
に信じさせ、感動に打ち震わせ、生き方さえも変えてしまった
最大の決め手は、天が黒澤に与えた 図抜けた演出力
悪魔的映像表現力だった。
この円熟を極めた映画作りの実力が、黒澤映画のもう一方の
魅力である
人間に対する鋭い批評眼とそれを乗り越えた
人間愛を より一層 際立たせている。


 

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鬼手仏心 と謳われた黒澤芸術の重厚華麗なテクニックと本物
のヒューマニズムを心ゆくまで堪能できる代表的クロサワ映画
……それが 「赤ひげ」である。
観た後も、深い余韻と畏敬の念に満たされる
稀(まれ)な1本だ。



 

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1965年(昭和40年)4月24日封切
上映時間/ 3時間05分


原作 ‥‥‥‥‥山本周五郎「赤ひげ診療譚(たん)より
製作 ‥‥‥‥‥田中友幸、菊島隆三
監督 ‥‥‥‥‥
黒澤明
脚本 ‥‥‥‥‥
井手雅人、小国英雄、菊島隆三、黒澤明
撮影 ‥‥‥‥‥中井朝一、斎藤孝雄
美術 ‥‥‥‥‥村木与四郎
録音 ‥‥‥‥‥渡会伸
照明 ‥‥‥‥‥森弘充
音楽 ‥‥‥‥‥佐藤勝
助監督 ‥‥‥‥森谷司郎


【配役】
新出去定 ・・・・・・
三船敏郎
保本登 ・・・・・・・・
加山雄三
佐八 ・・・・・・・・・・
山崎努
お杉 ・・・・・・・・・・
団令子
おなか ・・・・・・・・
桑野みゆき
狂女  ・・・・・・・・・
香川京子
津川玄三 ・・・・・・
江原達怡
おとよ ・・・・・・・・ 二木てるみ
おくに ・・・・・・・・・
根岸明美
長次 ・・・・・・・・・・
頭師佳孝
森半太夫 ・・・・・・
土屋嘉男
五平次 ・・・・・・・・
東野英治郎
和泉屋徳兵衛・・・
志村喬
登の父 ・・・・・・・・
笠智衆
娼家の女主人・・・
杉村春子
登の母 ・・・・・・・・
田中絹代
狂女の父・・・・・・・
柳永二郎
平吉 ・・・・・・・・・・
三井弘次
松平家家老・・・・・
西村晃
松平壱岐 ・・・・・・
千葉信男
六助 ・・・・・・・・・・藤原釜足
天野源伯 ・・・・・・三津田健
おとく(賄婦)・・・・七尾伶子
おかち(賄婦)・・・辻伊万里
おふく(賄婦)・・・ 野村昭子
おたけ(賄婦)・・・三戸部スエ
長次の母 ・・・・・・
菅井きん
娼家 の主人 ・・・
荒木道子
入所患者 ・・・・・・
左卜全
入所患者 ・・・・・・渡辺篤
ちぐさ ・・・・・・・・・
藤山陽子
まさえ ・・・・・・・・ 内藤洋子



【作品紹介】
山本周五郎の名作「赤ひげ診療譚(たん)」を原作に、巨匠黒澤明
船敏郎、加山雄主演で映画化したヒューマン感動巨編。
舞台は江戸末期、幕府直轄の病院 「小石川養生所」。
そこで見聞きした多様な人生の真実と、所長を務める“赤ひげ”の
偉大なるホスピタリティ(博愛精神)・・・・・それらによって感化され
人生観を180度変えていった若き医師の物語。
映画は、大きく変化していく青年の心の軌跡を 鮮やかに描き出す。




【物語】
幕府の御番医という栄達の道を歩むべく長崎遊学から江戸に戻った
保本登は、小石川養生所の所長 ・新出去定(赤ひげ)に呼び出され、
唐突に医員見習い勤務を命ぜられる。
突然の辞令に戸惑う保本だったが、それも無理はなかった。養生所
は無料診療・投薬を旨(むね)とする“貧民救済”の病院であり、ここ
で働くことは 「出世・栄達の道」 から外れることを意味していた。
養生所に来た当初、意に反して出世コースから外されたことへの憤り、
許婚者(いいなずけ)の裏切り、殺風景な職場環境と多忙極まる勤務
実態、漂う貧困の臭い、ひどく無愛想で無理解?な赤ひげ(三船敏郎)
などなど、自分を取り巻くありとあらゆるものに不満を抱き、鬱々とした
気持ちで日を送る保本(加山雄三)。
周囲の誰かれ構わず 反抗の態度を露わにし、所の規則を故意に破り、
ひたすら職場から解放(追放)されることだけを望んでいた保本だったが、
“自己の生存を脅かされる危機”から間一髪救われ、それをきっかけに
態度を改めるようになる。
その後、市井の人々の悲しい最期と それにまつわる感動的な物語に
触れ、加えて、赤ひげの魅力あふれる人間性や卓越した識見・技量に
接するうちに、保本は、自分が いかに未熟で高慢な青二才だったかを
思い知り がく然となる。
「仁術としての医学」と 「それを為す医者のあるべき姿」に目覚めた彼
は、悲惨な境遇から救い出された少女との懸命の交流を通して大きく
成長していく。
人を救うとは おのれを救うこと ・・・・保本は、この“真理”を 赤ひげ
から身をもって教えられた気がした。  どうやら彼は、一生を懸けるに
ふさわしい仕事を見つけたようだ。
        





無理だ!  若き医師 ・保本は匙(さじ)を投げた。
薬をはねつけ、粥(かゆ)の椀をたたきつける狂暴な少女。
「貸してみろ」・・・・おもむろに薬匙を受け取る赤ひげ。
直後、保本の眼前で信じられないことが起こる。
映画最大の見せ場、世界が感動でふるえた瞬間だった。

 

 

。。
   

若い頃、私は医者としての個人的成功を夢見ていた。
しかし、この旅を通じて考えが変わった。
飢えや貧困を救うには注射だけでは不十分だ。
病人の治療より重要なことは 病人を出さないことだ。
ならば 社会構造そのものを変革することが、病気根絶
の近道になるはずだ。 (チェ・ゲバラ

第一章    双十字(ダブルクロス)




 

1965年、ローマ教皇パウロ6世は ひとつの決断を迫られていた。
カルカッタ (現コルカタ)の修道会 「神の愛の宣教者会」 を拠点に
人道支援活動を展開する修道女 シスターテレサ から出されて
いた請願書に 回答を示す日が迫っていたのだ。


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シスターテレサ(マザーテレサ)は ホスピス「死を待つ人の家」
いう施設を インド・カルカッタを拠点に運営していたが、その活動を
インド国外にも広めたいと熱望していた。
その思いを早期に実現するために、シスターは、バチカンに対して
繰り返し 許可を求めていたのだ。

 

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しかし、教義を越えての福祉活動に難色を示すバチカン当局は
回答を留保していた。
このとき彼らは 「あくまで布教がメイン 人道的援助は従」 という
原則に固執していたことになる。

 


以前から、「困窮した貧民らを見れば誰かれ構わず面倒をみようと
するバチカンに従順でない変わり者」 というのが、彼女に対する
バチカン側の一致した評価だった。
そんな彼女のもとに バチカンから回答が届く。
それは “ひどく意外な内容” だった。


「貴修道会のインド国外での活動に対し、これを許可する」

これまでの経緯から見て、急転直下の“有り得ない”決定だった。
シスターテレサは、その通達を 繰り返し読み返した。
読み返すたびに、押さえ切れない喜びがあふれてきた。
視界は突然ひらけたのだ。


 



早速 その年の暮れ、インド国外に 初めて修道女が派遣される。
行き先は 南米ベネズエラ。
以後、修道会の人道活動は 驚くほどの速さで全世界に広がって
いくのだが、(意外にも)それに大きく寄与したのは 遠く東洋から
もたらされた1本の映画だった。


     

 


「赤ひげ」では、養生所の門を仰ぎ見るように撮ったショットが
何度も出てくるが、この門こそ、バチカンが “歴史的英断” を
下すに至った象徴的モチーフであり、方針転換への強い啓示
をもたらした双十字門(ダブルクロス)だった。
この門に象徴される映画の印象は(作者の知らないところで)
教皇らバチカン幹部に強烈なインパクトを与えていた。

 

 


我々の為すべきことがここにある」・・・・教皇が努めて冷静に
そう言った瞬間、マザーテレサの新たな運命が開かれたといって
いい。
数日のうちに バチカンに動きがあり、彼女の提出していた請願に
裁可が下された。
特に異議らしい異議も出ず、珍しく全員一致の決定だった。
もちろん そんな経緯(いきさつ)など、世事に疎(うと)いテレサが
知るはずもなかったが、たとえ知っても ほとんど関心を示すことは
なかっただろう。

 

 


それからまもなく、ヴェネチア映画祭出席のため イタリアを訪れて
いた黒澤のもとに、「赤ひげ」が 国際カトリック映画事務局賞
受賞したという報せが飛び込んできた。
キリスト教に無縁であるはずの極東の小国のコスチュームプレイ
(時代劇)が、この栄誉ある賞を受賞したという報道は世界の耳目
を集めた。
受賞は、欧米各国にとって“晴天のへきれき”だったかも知れない。
だが、黒澤の本質を知る者、または 一度でも「赤ひげ」を観賞した
者から見れば納得できる受賞であり、当然の結果にも思えた。
 

        

 

 

「羅生門」(1950)から すでに15年。
黒澤明 は、海外でも “超”がつく有名人となっていた。当時の
欧米で、彼ほどの知名度を持つ日本人は他にいなかった。

一方、この時期のマザーテレサは、欧米はおろか インドでも
まだまだ無名のシスターに過ぎなかった。
しかし、この年を境に、彼女の存在とその活動は 広く世界に
知られるようになっていく。
活動の範囲拡大とともに、組織も大きくなっていった。
現在「神の愛の宣教者会」 は4000名以上のシスターを擁し、
90を超える国々で活動する巨大組織となっている。




1979年、永年にわたる民族 ・宗教を超えた献身的活動により、
マザーテレサに ノーベル平和賞が授与された。
(そんな流れとは逆に)黒澤が、1965年以後 イバラの道を歩む
ことになるのは、まさに歴史の皮肉であった。

。。



ともに1910年生まれで、妥協なき人生を生き抜いてきた二人。
そんな二人のその後は・・・・
マザーテレサが海外に雄飛してから
30数年の歳月が流れた1997年、彼女は87歳の生涯を閉じた。
訃報は、瞬時に全世界に配信され、異邦人の彼女のためにインド
初の国葬が営まれた。 
黒澤も その1年後に逝去するが、その命日は 奇(く) しくも 同じ
9月6日だった。

このような数奇な経緯で、期せずして “同級生” マザーテレサを
助けた形の黒澤ではあったが、二人の偶然の接点は、あの時が
最初で最後だったといわれている。

 

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ところで、養生所の門を あのようなフォルムに造形したのは
作者のどんな意図、狙いが秘められていたのか?
それについて、黒澤自身は多くを語っていない。
ただ…当時の現場スタッフらの証言(回想)を詳しく調べてみると、
ひとつの共通項が浮かび上がってくる。
「単なる偶然にしては、あの門へのこだわりは尋常ではなかった」
というのである。
そして・・・・映画の公開に合わせて “あのポスター” が出た。



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上のポスターを ご覧頂きたい。
黒澤自身の指示で図案が決められたという珍しいポスターだ。
図案全体に凝らされた細心の配慮と特徴的意匠(デザイン)。
中央に巨大な“十字架”があしらわれ、「映画のメインモチーフは
この“十字架” に象徴されるキリスト教の理念そのものである」
と主張するがごとき意匠である。


黒澤は “あるねらい”を胸に秘めながら この門を造形し、それを
強調する極端なアングルで映画を撮っていった。
複数のカメラは常に、坂上の門影を仰ぎ見るようにねらっていたが、
その厳(おごそ)かな威容は、さながら ゴルゴタの丘の十字架
であった。
あまりに極端なそのアングル設定に、撮影監督らも 首をかしげる
ことがしばしばだった 門への強いこだわり。
そして・・・・ヴェネチアへの出品が決まった際、黒澤の監修のもと、
この 「カソリック教徒にとって特別の意味を持つ意匠」 のポスター
が鋭意制作されたのである。   
  


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【ファーストシーン】

保本登が初めて目にする双十字門。 その独特のアングル。
(背景に建物がかぶらないよう、細心の注意が払われている)


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。    

 

.

第二章    女優たち


 

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三船敏郎
は 空前絶後の演技者だった。
彼ほどの名優をスクリーンで拝むことは、もはやないだろう。
そんな稀代の名優に臆せず正面からぶつかっていった加山雄三の豪胆、
そして、その果実である “一世一代の名演”もまた 永遠に語り継がれて
いくものだろう。




そんな両雄の、もはや伝説となった“ガチンコ競演”もさることながら ・・・・・・
薄幸の少女の繊細微妙な内面を 憑かれたように(しかし抑制的に)演じてみ
せた早熟の演技派少女
二木てるみ、美貌の下の狂気…その歪んだ二面性
を メリハリの利いた演技で見事に演じ切った
香川京子、一途な愛に生きよう
として遂に果たせず ひとり自裁した女の悲しみを、抑制の利いた的確な演技
で表現してみせた桑野みゆき
伝説の“長回しワンカット撮影”において鬼気
迫る熱演を披露し 歴戦のスタッフさえ戦慄させた根岸明美悪女を演じれば
常に国宝級のうまさを見せつけ、ただただ観る者をア然させる重鎮杉村春子
映画の冒頭から終わりまで要所要所に登場し“下品寸止め”の見事な掛合い
で 「場をピリッと引き締めながらも和ませる」 という至芸を見せた賄婦四人組
(七尾伶子・辻伊万里・野村昭子・三戸部スエ) などなど、この映画の

つ魅力の大部分を、これら綺羅 星の如き女優たちの畢生入魂の熱演が支え
創り出している。



(繰り返しになるが)そんな歴史的名演の数々も、主演二人の “重厚な競演”
の陰に隠れ、それほど喧伝されることもなく来た。
それはひとつに、「赤ひげ」 における “女優陣の競演”が、伯仲拮抗する女優
たちの“熱演”が売り
のあらゆるドラマ、例えば絢爛たる「大奥もの」に見られる
ような 「自称演技派の女優陣による大仰で安っぽい名演ショー」 に堕すことが
なかったから、とも言えるだろう。
「真にドラマチックな演技」と 「大げさでわざとらしい演技」が似て非なるものだ
ということを、 この映画から学んだ演出家、演技者たちは少なくない。


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黒澤の神業演出によって“永遠の生命”を得た 「佐八おなかの話」

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                桑野みゆき                  山崎努

 
。。

。。。◆    ◆    ◆

ところで、本作の “最優秀女優賞” は 誰に贈るべきなのだろうか?  
二木てるみ? それとも香川京子?
「そりゃあ 杉村春子だよ」 というあなた、根岸明美も お忘れなく…

と まあ、“最優秀女優”を選ぶとなると、こんなふうに意見が割れる
ことが予想される。
そんな中、ある女優が演じたエピソードに関して、「この話はホントに
必要?」などと、多くの人が指摘する “問題のエピソード”がある。
佐八とおなかの悲話 だ。



この “不要論” には一理ある。(というより、もしかしたら こっちのほう
が正論だったのかも知れないが…) 
“チーム黒澤”で脚本を書き上げた菊島隆三の話を お聴き頂きたい。

私は“佐八の告白”に違和感を覚えていた。(原作の)その箇所を
何度読み返してみても、佐八がおなかを殺したのでは、という
疑念を消し去ることが出来なかったのだ。
冷静に読めば分かることだが、佐八の告白には不自然な点が多く、
そのまま信じるには無理がある と思われた。
そもそも、若くて健康な母親が乳呑児を残して死ねるものだろうか?
それも心中ではなく 寂しくひとりで逝くなんて 到底納得できるもの
ではない。
もちろん 原作の「佐八」は美化されてはいないし、文学的曖昧さを
失ってもいない。
だが 映画は文学とは違う。
私は 内心、「映画が観念的な美談で終わらなければいいが…」と
懸念したのだ。

脚本チームの4人の中で、最後まで「佐八とおなか」に固執したのは
黒澤だけだった。
ただ、黒澤にも絶対的な勝算があったわけではなく、どちらかと言えば
迷いのほうが大きかった。
すべてはキャスティングに懸かっている。 話にリアリティを与える
には それしかない
・・・・黒澤は そう考えていた。
「ふさわしい役者がいなければ、この話は諦める。 佐八は山崎(努)で
いけるだろうが、問題は おなかのほうだ」
もはやこうなると、映画の成否のある部分は 「おなか」に懸かってきた。
しかし、この役が なかなか決まらなかったのだ。

このような経緯から、“カギを握るキャスト” となった「おなか」。
東宝内では ついに決まらず、外に網を広げた末に 漸(ようや)く
決まった因縁の「おなか」。
紆余曲折のすえ、タイムリミット寸前で見いだされた新進女優は 
松竹の若き演技派 桑野みゆき
だった。


彼女によって完璧に演じられた「おなか」だが、この役が どんな経緯
で 松竹専属女優である彼女に回ってきたのだろうか?

おなかを演じるために生まれてきたと評され、語り継がれる演技と
鮮やかな残像を残して映画界を去った桑野みゆき・・・・そんな彼女へ
尊敬と
感謝を込めて、「おなか」誕生の経緯(いきさつ)を探ってみたい。


   ◆  ◆  ◆


 

みゆきの母、桑野通子は松竹の看板女優のひとりだった。1984年に75歳の上原謙(加山雄三の父)が上梓した自伝風エッセイ 「がんばってます」の中で、通子の思い出に触れた箇所があり、当時、内容の率直さから かなり話題になったという。以下は その一節。

仲間内では、私が桑野通子さんと結婚するかもしれないと思われていた。
私は入社早々に撮った9本中 6本を共演していて、彼女が嫌いではなかった。
だから、心の底で、しばしば桑野さんといっしょになってもいいかなという気持ち
が働いていたことは事実である。<中略>松竹蒲田に入社したころ、私は撮影
が忙しいこともあって城戸四郎さんの親戚が経営する「大森ホテル」の隣にある
アバートで暮らしていた。
そこに人目を忍んで、桑野さんが二度ばかり訪ねてきたことがある。
外で逢えば人目につきすぎる。そこで私のアバートの部屋でお茶を飲もうという
ことになったのだ。私たちは自然のなりゆきで接吻を交わした。彼女が私に好意
をもっていることはすぐにわかった。
私たちは当然そこから一層深く結びつく段階に移行するはずだった。
ところが 彼女はためらったあげく、「私はだめなのよ」 と寂しそうに言った。
二回ばかりの密会で、同じことが二回続いた。 
「私はだめなの」と言われて、それ以上 彼女に結びつきを強いようとは思わなか
った。さらに踏みこんで求めていれば、あるいは彼女は応えてくれたかもしれない。
私は怒っていなかった。 彼女を包む苦悩と悲しみの色が ありありと見えたからで
ある。
もし私に罪があったとすれば、彼女の 苦悩にあふれた拒否の背景に手を伸ばし、
それをやさしく包んでやろうとはしなかったことだろう。 私は彼女から理由を聞き
出すこともなく、ただ さよならの言葉を告げただけだった。
このとき、もう一歩 彼女の心に真剣に踏みこんでいたら、私たちはひょっとしたら
結ばれたかもしれない。
もしそうなっていたら、彼女の若過ぎる死は回避できたかも知れないし、小桜葉子
(加山雄三の母)との結婚もなかったかも知れない。
私は いわゆる運命論者ではないが、人は それぞれ重く悲しい運命を背負(しょ)
いこんでいて、それをどこかで投げ捨て、思い切って新しい軌道に乗り移る決意を
しない限り、運命は桎梏(しっこく)となって 行く手に立ちはだかってくる。
このとき運命の転轍機(てんてつき)は おそらく目の前にあった。 
しかし、桑野さんも 私も、これに手をかける勇気がなかったのである。

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小津安二郎 淑女は何を忘れたか(1937)
http://www.youtube.com/watch?v=lQEqocInfxw&feature=related



桑野通子は 長女みゆきが3歳の頃、31歳の若さで亡くなった。
したがって、みゆきには母との想い出がほとんどない。
「不幸」といえば、最大級の不幸と言っていいだろう。
黒澤の慧(けい)眼は、みゆきの瞳の奥の哀しみ・・・薄幸の翳
(かげ)を見逃さなかった。


藤圭子の娘 ・宇多田ヒカルがデビューした時、(特に中年以上の
世代において) ある種の感慨を覚えた人が少なくなかった。
しかし それは、桑野通子の “忘れ形見”が 13歳で映画デビュー
したときの、人々が感じた“切なくゆすぶられるような感情”に比べ
れば、ひどく軽いものだったろう。
なぜなら、もはやこの世の人ではない通子には、藤圭子のように、
娘の晴れ姿を見ることも、優しく励ますことも、プロとしての経験を
話してあげることも、恋の相談に乗ってあげることも・・・そのたった
ひとつさえ、かわいい我が子にしてあげられなかったのである。
しかし、不幸は ここで終わらなかった。小津が死んだのだ。



もともと、みゆきには “父親” がなかった。
いや、正確にいうと、彼女の父親は既婚者であった。
だから、みゆきは戸籍上 “私生児”の扱いを受けた。
結局 この男は、 「頃合いを見て別れる」 と言いつつも
それを実行する前に (内妻)通子と死別した。
みゆきを愛した母・通子は、死の間際まで結婚を夢見て
懸命に生き、そして旅立ったのである。
それから20余年、“遺児みゆき” の後見人の代表として、
松竹社長・城戸四郎が、その成長を温かく見守った。




そんなみゆきに、もうひとり 父親の如く慕ってやまない
大物映画人がいた。 それが小津安二郎だった。

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小津は、ことあるごとに料理屋に誘ったり、誕生日やクリスマスに
プレゼントを贈ったりと、 みゆきへの細やかな気遣いを見せつつ、
さりげなく “足長おじさん” を務めていた。
みゆきは、そんな小津が大好きだった。
何より 小津が語ってくれる“母の思い出話”を聞く時が、みゆきに
とって至福の時であり、また感情の激しく揺れ動く時間でもあった。
大きな喜びを感じつつも、同時に 切ない気持ちに襲われるのだ。
みゆきは、“今日こそ絶対泣くまい” と心に固く決めながらもなお、
涙があふれてくる自分がイヤだった。

小津は、みゆきに女優としてのキャリアを積ませるため、チョイ役ながら、
彼岸花」(1958)、「秋日和」(1960) にも起用している。
そんな大切な“パパ”小津安二郎が急逝したのは1963年(昭和38年)、
師走の寒い日であった。



運命とは じつに皮肉なものだ。
もし、63年12月というこの時期に小津が亡くなっていなければ、
また、黒澤が予定通り 「東京オリンピック」を撮っていたならば、
みゆきが「おなか」を演じることは 99%なかっただろう。



黒澤は 小津の葬儀に出席し、そこで初めてみゆきを見た。
その日、彼女の悲しみは極限にあり、尋常ならざるその様子は
参列者の目を引いた。
無理もない。 堪えきれぬ悲しみにふるえるみゆきの姿は、
傍にいた原節子より…“小津の心の妻”と囁かれた原節子より、
ずっと落胆しているように見えていたのだ。
黒澤は、旧知の原節子に目礼した際、何気なく みゆきを見た。
その姿は、巨匠の目に印象深く焼き付く。
事情に疎い黒澤は、彼女の中に “破格の演技力”を見た。



     

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。。

【黒澤明 3大降板】

●「東京オリンピック」
黒澤が、かの傑作「民族の祭典」を超えるべく3年間準備してきた
わが国初の五輪記録映画。
しかし、あと1年というところで、製作費が折り合わず無念の決裂。
その後、紆余曲折のすえ、市川昆監督が引き受け、撮り上げた。

●「暴走機関車」
日本では、その才能を発揮しがたくなった黒澤の米国進出第1弾
として企画されるも、日米双方の認識の違いから無期延期となる。
後年、コンチャロフスキーが黒澤脚本、ジョン・ボイト主演で映画化
するも、黒澤は 「ねらいが分かってないね」 と否定的だった。


●「トラ! トラ! トラ!」
真珠湾攻撃を 日米双方から描いた超大作映画。
「史上最大の作戦」のヒットに味をしめた20世紀FOXプロデューサー
ザナックが 2匹目のドジョウを狙った。
しかし、日本側プロデューサーの不審な言動 (契約内容を偽るなど)
から疑心暗鬼に陥った黒澤が体調を崩し、撮影が遅滞したことから
契約不履行の責任を問われ、中途解任された。

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1960年8月、黒澤は、ローマ五輪視察のため、イタリアに赴いた。
4年後に撮る映画「東京オリンピック」の下調べだったが、黒澤は、
いつにも増して意欲満々だった。
当時 誰もが、日本の映画監督でクロサワ以上の適任者はいない
と思っていたし、彼自身 そう信じていた。
それは、彼が、スポーツの真髄を知る数少ない芸術家だった
ということだけではない。



黒澤の父・勇は、軍人出身ながら、青少年の体育教育、スポーツ
の普及に尽くした人で、日本体育大学(の前身)で教授も勤めた。
氏は 「日本体育の父」 と評されるほどの人格者で、彼の教え子ら
が招致活動の実務に当たり、開催を勝ち取った1940年東京五輪
の交渉過程においても、陰ながら寄与した人物だった。
ところが、その年の開催は、中国との戦争勃発のため 幻に終わる。
1964年の五輪開催は、日本にとって、ある意味24年前の仕切り
直しであり、黒澤家にとっても 因縁深い“悲願”の達成だったのだ。


帰国後、黒澤が五輪組織委員会に提出した「視察報告 及び映画
製作に関する覚え書き」 は 400ページに及んでいた。
それによると 黒澤サイドが算出した製作費見積り総額は 5億6千
万円で、「フィルムの消費量によって 3千万円増の可能性が有る」
という付帯条件が添えられていた。
これに対し、JOCの想定する製作予算は およそ2億5千万円。
JOCの幹部たちは、“黒澤レポート”にみなぎる意欲と情熱に気圧
(けお)されつつも、「確かに 予算に関しては こちらと大きな開きが
ある……でも まあ、今後の調整過程(=駆け引き)で幾らでも歩み
寄りが出来るはず」 と踏んでいた。
しかし、この予断が意外な結末を招くことになる。
JOCサイドには、(20余年前の父親との関係を考えても)そのうち
黒澤が妥協し 折れてくれると、どこか高をくくっている所があった。
 

◆  

第三章    曲軒が泣いた日

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試写後、杉村春子が苦笑まじりにつぶやいた言葉がふるっていた。
あの子が 全部持っていっちゃったわね
“あの子” とは 頭師佳孝 が演じた 「長坊」 のことだ。

映画「赤ひげ」を語るとき、やはり この天才子役を 無視する
わけにもいかないだろう。


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長次1.jpg

どですかでん.jpg  
                   
6年後の頭師佳孝

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第四章    訣  別

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「赤ひげ」は 18年に及ぶ “最強コンビ”の最後の作品 となった。
だが、当時 その訣別を予感した人が どれほどいただろう。
その後も長きに渡り、“謎の訣別”について 様々な憶測が乱れ飛んだ。

この稿では、両雄が袂(たもと)を分かつに至った“真相” について
言及しておきたい。

「影武者」(1980)で緊急登板せざるを得なかった仲代達矢を除き、
「赤ひげ」以降の15年間、 (頓挫した企画を含め)主役級の俳優が
黒澤映画に出演することはなかった。
だが、それは決して偶然ではない。
それほど、黒澤の三船に対する心づかいには 大変なものがあった。
たとえ「赤ひげ」撮影中にどんな経緯(いきさつ)があったとしても だ。



なお、いきさつの詳細については 別項で述べる予定のため、
ここでは その遺恨の背景と流れを説明するにとどめたい。


それは…「永年の不眠症に苦しむ黒澤(強迫性不眠)」→ 「過度の
飲酒プラス向精神薬への強度依存」→ 「黒澤の体調不良(更年期
障害がうつ的症状に拍車をかけた)による当日撮影中止の頻発」→
「出演契約の限度(許容限界)を大きく超えた三船の拘束期間延長」
という悪夢のごとき連鎖の中で起こった。

 

 

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◆予告編
http://www.youtube.com/watch?v=TgNgXsKSzp0

◆資料
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1095.html




 

 

 

 

赤ひげ1.jpg

おなか①.jpg

 

 


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コメント 10

shim47

 あけましておめでとうございます。
いつものことながら造詣の深さには敬服することしきりで、大変勉強になります。ここまで作品の内奥に踏み込んだテキストが無料で拝読できるというのは有り難いような勿体ないような・・・

 遅ればせながら、RSSのリンクを貼らせて頂きましたのでご報告させて頂きます。更新を心待ちにしております。それでは。
by shim47 (2008-01-03 08:50) 

あけましておめでとうございます。
今年もHiji-kataさんの記事を楽しみにしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
by (2008-01-03 15:39) 

Hiji-kata

■shim47様
あけまして おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
過分なお褒めの言葉は、お正月の “お年玉” として
ありがたく頂いておきたいと思います。
nice! ともども ありがとうございました。
by Hiji-kata (2008-01-04 12:26) 

Hiji-kata

■梨花様
あけまして おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
過分な激励のお言葉は、“御年賀”として
ありがたく頂いておこうと思います(^^)
nice! ともども ありがとうございました。
by Hiji-kata (2008-01-04 12:31) 

ハジナレフ

明けましておめでとうございます!

赤ひげ、実は手元にDVDがあるのにまだ見ていないので今回の記事はとりあえず本編を見てから改めてキチンと読ませていただきます。
幸い連載されるご予定のようなので・・・

今年もよろしくお願いいたします!
by ハジナレフ (2008-01-05 02:40) 

Hiji-kata

■ハジナレフ様
あけまして おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

えっ! 「赤ひげ」を まだ観てない?
(赤ひげのまねで)それはいけない!
そんな無茶をしてはいけない! 即刻観るべきだ!
ひらめいたイラストを速攻描くような気構えで。。。。(^^)
今年は お互い “ドン・キホーテ”で行きたいですなァ(笑)
by Hiji-kata (2008-01-06 01:10) 

あけましておめでとうございます。
今年もブログを楽しみに拝見させていただきます。
「赤ひげ」…江口洋介さんのドラマで見たんですが(それでいいのでしょうか?)
勉強してください!と言われそうですね。
by (2008-01-06 21:05) 

Hiji-kata

■柚子様
あけましておめでとうございます。
黒澤映画に初めて参加した俳優は、そこで出される食事の
あまりの豪華さに目を疑いました。でもそれで文句をいう人
は一人もいなかったそうです。(そんなの当たり前ですよね)
多くの映画製作者が、一人1日300円~500円を死守しよう
と躍起になる中、黒澤組の予算は平均で 5000円位でした。
ともに働く人への感謝は 「感動的においしい食事」で示したい
・・・・・これが黒澤流の「隣人愛」でした。
「人を愛するとは隣人を愛することなのです」(マザー・テレサ)
おそらくそれは普遍の真理なのでしょう。
でも、この真理を 黒澤ほど徹底して実践しようとした映画人を
私は知りません。
そんな黒澤監督が足掛け二年かかって撮り上げた「赤ひげ」は、
(数百円クラスの味でないのは当然として) きっと5000円より
ずっと上、数万円クラスの超美味を堪能できるはずですよ(^^)
by Hiji-kata (2008-01-07 11:41) 

チヨロギ

出遅れてしまいました~(>_<)
あけましておめでとうございます!
昨年はいろいろとお世話になりました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
ところで、今年は「三悪人」がリメイクされるようですね。
Hiji-kataさんの評価やいかに・・・。
楽しみにしておりますw
by チヨロギ (2008-01-08 02:15) 

Hiji-kata

■チヨロギ様
あけましておめでとうございます!
昨年は こちらこそお世話になりました。
今年もよろしくお願いいたします(^^)
新「隠し砦の三悪人」は 5月の公開でしたね。
期待しないで(=怖いもの見たさで)
こっそり 隠れ隠れ行くつもりです(笑)
by Hiji-kata (2008-01-08 07:08) 

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